小ネタで息抜き。vol.3 「日本で初めて第九が流れた場所」

ジャンル問わずの小ネタ・小話を紹介する記事です。

世界に誇れる日本人の話です。

舞台は第1次世界大戦の1917年から1920年にかけて。

現在もなお大衆に愛され、クラシックの名曲として有名なベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて演奏されました。

立派なコンサートホールや劇場などではありません。
当時は敵対していたドイツ人が捕虜として収容されていた徳島県にある板東俘虜収容所です。
演奏に至るまでには、利害・国籍を超えた人間同士の交流とヒューマニズムに溢れた日本人の存在があったのです。

板東俘虜収容所

今回の話の舞台となる板東俘虜収容所。当時は捕虜のことを俘虜(ふりょ)と呼んでおり、中国の青島で日本軍と戦って捕えられたドイツ兵が徳島にある板東俘虜収容所に収容されていました。



捕虜受け入れに際し混乱を避けるため、また自身の出自から捕虜の理不尽さと悲しみを理解していた所長の松江豊寿陸軍中佐は部下に対し、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行うことを厳命。
また警戒心を持っているドイツ人捕虜に対しては、その勇敢な戦いぶりを称賛、名誉をたたえ、軍門に下っても誇りは失わないよう所信を表明したのでした。
当時もその後も日本軍が表立って捕虜に対して敬意を表したりすることはなく、この松江中佐の対応は異例だったといわれています。

異色づくめの捕虜対応

その捕虜たちの日常は驚くべきことに拘束はほぼなくかなり自由に生活を送っていたようで、運動場を作ったり、ドイツ人が経営する店を作ったりと1コミュニティとしての様相を呈していたようです。これには政府の思惑もあり、ドイツ人捕虜のほとんどは職業軍人ではなく元は一般市民。職人として働いていた人が多く、これを機にドイツの技術・考え方を取り入れようとしていました。

家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々な技術・情報がこの時期日本に持ち込まれたと言われています。

元兵士であるドイツ人があたりをうろうろ歩いていたりするものですから、当然周辺の住民には混乱が生じます。しかしそれも時間とともに距離が近づき、住民も「ドイツさん」という愛称で受け入れはじめ、交流が始まります。



いつしか収容所は日独交流館といったような様相となっていくのでした。

迎えた転機

すべてが順調、というわけではなくやはり軍の上層部からは自由に水遊びしたりしている捕虜の扱いに難色を示すことも。
しかし松江所長はそのたび軍と掛け合い、ときにははぐらかしながら捕虜の立場を守り続けました。そのたび口癖のようにつぶやくのでした。

「ドイツ人も祖国のために戦ったのだから」と。

これには自身の先祖のルーツである会津藩が時代の中で冷遇されたことに対する自身の経験も影響していたようです。

しかし穏やかな時間もドイツ軍の戦局悪化とともに変わっていきます。祖国の行く末が気になり、ふさぎ込み勝ちとなるドイツ人捕虜。今まではなかった暴行事件なども起こってしまいます。

そんな状況に松江所長はドイツ人捕虜に対し、一時期続けていた新聞の発行を始めるよう説得。そのおかげもあって希望と勇気を持ち続けることができたのでした。

ドイツの敗戦

時代は進み、ドイツが敗戦、ヴェルサイユ条約が結ばれると収容所も役割を終えることになります。
双方別れを惜しみ、最後の親交を深めます。その一環としてドイツ人はベートベンの第九を演奏。板東俘虜収容所が日本で初めて演奏された地と言われています。



別れ際、通訳や日本語講師を務めたクルト・マイスナーは所長たちに対してこう言いました。

「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を私たちは決して忘れません。そしてもし私たちより更に不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で挑むことでしょう。『四方の海みな兄弟なり』という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう」

「四方の海」は明治天皇御製の歌。日本に敬意を表して使ったのだと思われますが、こういったところにもいかに両国の人たちが心を通わせていたかが伺えますね。

そして日本を去ってからも板東俘虜収容所での扱いに感謝を忘れなかったドイツ人達により交流は続けられていくのでした。

そのほかにも

ここで取り上げた松江所長以外にも戦時中に人道的な行いにより歴史に名を残している人はいます。

東洋のシンドラーといわれている杉原千敏、
一方的に攻められ玉砕したペリリュー島において参戦を申し出た島民に対し、巻き込むことで悲劇的な被害が出ることがわかっていたのであえて侮蔑の態度をとり島民を避難させた中川州男陸軍中将、
日本人ではありませんが、戦後の東京裁判において権力に屈することなく日本の権利を主張したインドのパール判事。

歴史の陰に埋もれがちですが、戦争という異常な世相の中でも人としての威厳を持ち続けた人がいたことを知っておいてもらいたいと思います。


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